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  3. NO.17 株式会社 富士通パーソナルズ 人事部 植木大輔 氏

「強さを求め努力する人」植木大輔が語る。

植木大輔 氏
株式会社 富士通パーソナルズ
人事部
植木大輔 氏
Q.今までの経歴を教えてください
小さい頃から田んぼのあぜ道を裸足で走り回るような、体を動かしている事が大好きな子どもでした。小学校1年生から野球を始め、実は高校3年生までは野球漬けの人生だったんですよ。一時、中学三年生のときにボクシングに興味を持ち、野球をやめようと考えました。しかしたまたま入学した近江高校が甲子園出場の常連校だったんです。入学したときは帰宅部でしたが、野球部に入った同級生が一生懸命練習している姿がキラキラとまぶしく見えました。一方何も打ち込む事がなく腐っている自分の姿を比較し、陰と陽みたいな気分になってしまったんですね。「このままではいけない」と考え直しまして、入学から1ヶ月遅れで野球部に入部しました。PAGE TOP
Q.甲子園常連校ともなると、相当厳しい世界だったのではないですか?
植木大輔 氏もちろんです。ピッチャーとして入部しましたが、100人くらいいる部員のうち、自分が今いる位置を考えたら、当然一番下の底辺ですよね。常連校と言えども、甲子園の土を踏めるのはほんの十数人です。最初は「何かに打ち込みたい」という気持ちで入部したのですが、持ち前の負けず嫌いに火がつきまして、やるからには勝ちたいと思うようになりました。160センチ代のピッチャーはめったにいないので、それがコンプレックスでもあり、自慢でもありました。残念ながら高校一年生の夏の甲子園はスタンドで応援していましたが、やっぱり甲子園は違います。大勢で一丸となって応援する気持ちよさや、それとは裏腹にグランドとスタンドを仕切るフェンスの高さや、いろんなことを考えました。来年は絶対フェンスの向こうに立ちたいと思いました。
2年生になり、さらに誰よりも一生懸命自主練習を積みました。たとえば、オフシーズンにみんなが毎日10キロ走るところ、私はこっそりと20キロ走りこんだりしてましたね。
その甲斐あって、2年目の夏の県大会ではなんとベンチ入りする3人のピッチャーの一人に選ばれたのです。みんな2年生でした。準決勝まで順調に進みましたが、そこで苦戦しました。一人目のピッチャーが出てボコボコに打たれ、二人目も同様にやはり打たれ、そして三人目の抑えとして自分の出番がきました。緊張しました。でも、やっぱりダメでした。とことん打たれてしまいました。チームのメンバーの声援、応援している人たちの期待の眼差し、でも投げるたびに打たれる。惨めでした。みんなにも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。泣きながら投げ続けたのを覚えています。
こうして高校2年生の夏が終わりました。
しかしその年の11月、近畿大会で再度チャンスがやってきました。このときは我ながら良い球を投げたなあと思います。今でも母校に遊びに行くと「あのとき選抜大会に行けたのは、君のお陰や」と言われます。この大会では見事優勝し、翌年の選抜大会の切符を手に入れる事が出来たのです。それが決まったときは部員全員で喜びの声とともに帽子を空に向って投げましたね。そして選抜大会に向けて練習を開始しました。しかし、なんと練習しすぎてひじと肩を壊してしまったのです。それでもそれを隠して練習をし続け、悪化させてしまいました。結局選抜大会では投げる機会がなく、夏の甲子園でもベンチ入りで終わってしまいました。PAGE TOP
Q.野球を通じて学んだ事は何ですか?
そうですね。やはりスポーツで満足するのは難しいですね。がむしゃらにやるだけでは失敗してしまいます。「何をどこに向ってやるのか」を考える事が大切です。自分の場合も正しい方向に向って正しいやり方をしなかったばっかりに肩を壊してしまいましたからね。
あと、誰も見ていないところでも、やることをやる姿勢が大切です。監督が見ているからがんばるのではなく、いつでも同じようにがんばるのです。そんな自分を見ていてくれる人はきっといるはずです。自分が自分の監督となって、負けそうなときには自問自答する事も忘れませんでした。PAGE TOP
Q.野球からアメリカンフットボールに移ったきっかけは何ですか?
植木大輔 氏高校卒業したらもう野球は止めようと最初から思っていましたので、大阪の大学を一般受験しようと思っていました。そんな時、ちょうど志望校であった大阪産業大学からアメフトのトライアルセレクションの話をいただいたのです。大阪産業大学は一部リーグの下位に位置することの多い大学です。一般受験で合格する可能性と天秤にかけ、トライアルセレクションを選びました。正直言うと、「合格したらとりあえずアメフト部に入部して、すぐに止めてしまえばいいや」と軽い気持ちで考えていたのですが、幸運にも合格し入学することになりました。初めて部活に出たときは、五厘頭のでかい人ばかりで、「絶対に生きて帰れない」と思いましたね。同じスポーツの世界と言えども、野球とは勝手が違い、アメフト特有の英単語は飛び交うし、厳しいコーチに叱咤されたり廊下に立たされたりするし、知らないことばかりでした。しかし、練習でボコボコにされたりするうちに、当初のもくろみは忘れ、闘争本能に火がつきました。嬉しさや悔しさや、いろんな感情がMAXになるスポーツなんです。非日常を味わえることでアメフトに魅せられました。大学3年の時には既に海外チームにも挑戦したいとうっすら考えていました。だから就職先はその可能性のある会社を選び、現在のアメフトチーム「富士通フロンティアーズ」に所属したのです。PAGE TOP
Q.海外挑戦の夢は叶ったのですか?
はい。入社して1年目の11月に渡米する話をいただきました。インターナショナルプレーヤーとして、アメリカ人選手以外のドラフト会議で引っ掛けてもらったのです。でも当社では籍を残しながら渡米するなど前例がありませんでしたから、上司に相談するのも正直気がひけました。怒られるんじゃないかと思いました。しかし思い切って相談したところ、とても喜んでくれました。チームメンバーを集めて「こんなにめでたい話はない。みんなで祝福しよう」と言ってくれたのです。うれしかったです。こうして2年目の春に渡米し、マイナーリーグで半年契約を結びました。PAGE TOP
Q.アメリカと日本の違いはありましたか?
植木大輔 氏日本と比べ、アメリカのほうが合理的だなという印象を受けました。日本は「根性」で這い蹲って練習しますが、アメリカは怪我しないように練習は軽くします。自主性に任せる部分が多いのです。
また日本に帰ってきてから「アメフトは楽しいんだ!」ってことをもっとアピールしたいと思いました。アメリカの選手は生活をかけてアメフトをしていますが、それでも試合や練習を紳士的に楽しんでいました。そういう考えを日本でも伝えたいと思いました。だからそれからというもの、意識的にアメフトを楽しむようになりましたね。幸いにも当時の富士通フロンティアーズのヘッドコーチはアメリカ人だったので、伸び伸びやらせてもらいました。たとえば、試合中に嬉しさを表現するダンスを踊ったり、思った事を素直に口に出したりするんです。ヘッドコーチが変わった今も変わらず、自主性を尊重してくれる環境はフロンティアーズのDNAだと思います。昨年からは副主将を務めさせていただいてます。フアンへのあいさつやメディアへの露出など人前で話す機会が増え、言葉で説明しにくい感覚を表現できるようになりました。またメンバーに働きかけることも結構好きですし、目先の楽しみのみならず、先の楽しみを考えて努力できるようになりました。アメフトに関しては「MVPがとれているシーン」「満員の観客からの大歓声を受けるシーン」など、ポジティブなイメージができるから「やれる気」になるんですよね。よくメンバーに言う事は「有言実行がチームに良い影響を与える」ということです。PAGE TOP
Q.最後に若者にひと言お願いします。
よく、「仕事とアメフトの両立は大変ではないですか?」と質問されます。もちろん大変ではありますが、でも、自分が持つ100%の力を半分ずつ使うのではなく、その瞬間瞬間で100%を出し切ろうと思っています。そのためには気持ちの切り替えが大事です。何事も時間をきめて集中する。やると決めた事はやる。次に引きずらない。私にとって、「仕事とは修行の場」アメフトとは「修行の成果を見せる場」なんです。今のヘッドコーチから習ったことですが、“今を生きる"ということです。いろいろと気になる事もあると思いますが、「今」に集中してみてください。きっと充実した毎日が送れるはずです。PAGE TOP